国産松茸販売センター誕生のストーリー

母と松茸

 昭和18年。広島県世羅郡で私の母、松浦月枝が松茸販売業を興しました。時は太平洋戦争の真っただ中で、満足のいく暮らしではなく、子供たちを食べさせていくのがやっとだったと聞いています。
 
 10年後の昭和28年。私、松浦辰行が生まれました。私は8人姉の末っ子長男で、母は私を大事に育ててくれたという思いで一杯です。そうはいうものの私の服は姉のお下がり。フリルのついた襟のブラウスを着て学校に行っては同級生に笑われたものです。
 
 何より私の子供時代の記憶の最たるものは松茸です。今では考えられませんが昔は広島県世羅郡といえば広島松茸の一大産地でした。毎日1軒当り200kg、300kgと松茸が持ち込まれるのです。そのため、我が家の食卓は松茸の佃煮、松茸ごはん、肉無しの松茸のすき焼き、学校に持って行く弁当も白飯の上に松茸の佃煮がのせてあり、母からは「染込んだまったけ(松茸)の汁で食え」と言われたのも懐かしい思い出です。
 
 秋は家族総出で松茸の手伝いをするので、私も学校から帰ったら松茸を買いに民家を回ります。手ぬぐいが軒先に干してあったら松茸がある。手ぬぐいがかかっていない日は今日は行っとらんよ。という合図。手ぬぐいのある日は、約束の場所に隠してある松茸を計り、お金をその場所に置き松茸を引き取ります。今日は風呂場のかばち(隅っこ)、今日は蔵の中、今日は冷蔵庫の中、今日は納屋など。当時から松茸は高級品でしたので生産者は家族にも知られないように毎回変えて秘密の場所に隠しておくのです。
 
 ある時、私と義理の兄は集荷が終わり、日も落ちて暗くなった山道を車で進んでいる時に、過って川に落ちたました。幸い大事には至りませんでしたが、その出来事を聞いた母の第一声は私達の心配ではなく「まったけは無事か!?」。
 
 母にとって松茸は一年間の生活がかかった大事なもので、子供たちを一年間食べさせていくための糧だったのです。この母に守られているという安心感を常に感じながら、私は世羅の池田という田舎で育っていきました。
 

第一のターニングポイント

 私が高校3年生の進路を決める時期になった時。私はそれまでアルバイトをしていた「まるそう」という魚屋で就職をすることに決めました。本当は大学に行きたい気持ちもありましたが、父に「そんな金はうちには無いからやめてくれ」といわれ、私も家庭の事情は理解していたので素直に受け入れたのでした。同級生の中には東京の大学に行った友達もいて、世羅に帰ってくるたびにどんどん垢抜けていく彼らを見て、東京って格好いいな!と思ったものでした。
 
 ある時、帰省していた同級生が「大学も行かずにこんなところで働いてつまらんのぅ」と私に言ったのです。それを聞いた私は、ものすごく馬鹿にされた気持ちになり、やっぱり自分も大学に行きたいと思うようになりました。いや、本当はずっと心の中ではそういう思いがあったのだと思います。そうはいっても、父は70歳を迎えていて母よりも元々頼りない性格なのであてになりません。私は母に自分の思いをぶつけてみました。すると母はこう言って私の背中を押してくれたのです。
「ワシがまったけ(松茸)で儲けてなんとかしちゃるけぇ、辰行は大学に行け!」と。
 
 それを聞いた私は死にものぐるいで来る日も来る日勉強をしました。もちろんまるそうで働きながらです。そして秋から受験勉強をはじめた私は年明けの受験に合格することができたのです。「大学に行ける!」私は胸が高鳴りました。
そして、母は言った通り大学4年間の学費を松茸で賄ってくれたのです。月日は過ぎて大学を卒業し、数年後には税理士になりました。税理士になってからも秋には母の松茸を毎年のように手伝っていました。
 
 母は私を大学に行かせるために、松茸に命を注ぎ込んだのだと思います。私が社会人になってから、豪快な母の姿はなくなっていきました。「お前は松茸のおかげで大学に行けたんだからお前の代まで松茸はやめちゃぁいけん」と私に松茸を託すようなことを言うようになっていました。
 
 大切な母の言葉に無視できない私は悩みました。なぜなら税理士事務所が軌道に乗りつつあり、松茸を私1人でするなんてとてもできることではなかったのです。
 

母との別れと㈱広島松茸の誕生

 そこで、世羅にあるいくつかの個人で松茸をやっている人たちと法人を作ってはどうだろうかと思うようになりました。昭和61年設立準備会を開き、世羅にある5軒の松茸個人業者を集めました。一年がかりで話し合いを続け、その末に誕生したのが「株式会社広島松茸」です。昭和62年3月17日のことでした。私はこの「(株)広島松茸」の創業者の1人となったのです。
 
 そして、母は安心したかのように半年後の9月8日、この世を去りました。松茸の気配がすぐそこまできている時でした。
 
 さて、その後(株)広島松茸がどうなっていったのかというと、まず肝心要の世羅を含め広島の松茸は年々激減していきました。これでは会社を継続していくことができません。追い打ちをかけるように平成3年の台風19号。宮島の社に甚大な被害をもたらしたあの台風のあと、松茸の生産量は激減の一途をたどり、苦労して山に入ってもたいした収入にならないのだからと、だんだんと山へ行く人も減っていきました。

岩手県産松茸との出会い

 どうにかして松茸を集めなければと、創業者のメンバーで何度も会議を重ねました。そんな時、ある市場関係者から岩手県に松茸を集める熟練した目利きがいると教えてもらいました。私達は岩手県のその人の元へ向かいました。いきさつを話し世羅に松茸を送ることを引き受けて下さいました。それが今から28年程前のことです。
 
 「なんで広島なのに岩手県産なのか」というお声をよく頂戴致しますが、こうして世羅に、広島の市場に岩手県産が集まることになっていったのです。松茸の生産量が多い年では平成6年に8トン、平成10年に10トン集めて送ってくれたことがあります。松茸をトンで考えるなんて想像もつかないことだと思いますが、買付けられるということは、その人が長年培った信頼と人脈の賜物なのです。
 
 こうして松茸業界では着々と地位を占めて行きました。社長も代替わりを繰り返し、平成6年には社名も変わり、創業時のメンバーは私1人となりました。もちろん私は自分で選んだ税理士という仕事でお客様を守らなければいけない立場にもあるので、ここでの社長という肩書きを受けずにその後も携わってきました。そして、松茸の取扱高日本一を誇る企業に成長していきました。
 

第二のターニングポイント

 2015年9月。ある事件が起きました。当時の社長が、突然岩手のその人を解雇してしまったのです。
松茸業界において9月というのは松茸に向かってエンジン全開にしている時です。生産者、入札場、あちこちに挨拶回りをして「今年もよろしゅう御願いします」と、皆に頭を下げてまわっているのです。その人たちが次から次へと採れたての松茸をもってきます。松茸は「信用」で売ってくれるものなのです。そのため断る訳にもいきません。産地での信用を落とすことはできない。そんな時私に電話がかかってきました。
 
 話を聞いた私は空いた口が塞がりませんでした。なぜなら、会社がここまで来れたのはその人のおかげだと理解していたからです。なぜ当時の社長がそのような決断に至ったのかは分かりませんが、会社の恩人の首を切るとは、創業時の苦労を知る私にとってはあり得ないことでした。今でも忘れません、あの時の電話の向こうの声。私はシーズンの終わりに一つの決心をしました。
「私が会社を辞めてでも助けなければ」。
 
そしてもう一つ。私は創業時メンバーでもある先代の社長からも遺言も受けていたのです。
「あの人がおるから今の会社があるんじゃけぇ、それを知っとるのはもう辰行さんしかおらんのじゃけぇ、あんたがしっかり守ってやってくれぇのぉ。あの人のおかげで今のうちの会社があるんじゃけぇ」と。
 

再出発

こうして、2016年、私は「国産松茸販売センター」を立ち上げたのでした。
 
2016年、岩手県産を2トン。
2017年、全国的な松茸大不作の年に200kg松茸を送ってくれました。
 

国産松茸について

松茸に関して皆様にお伝えしたいことがあります。
松茸は自然のもの。松茸は出てきたい時にしか出てきてくれません。人間の思い通りになってくれないのです。暑くてもダメ、寒くてもダメ。最高温度が20℃前後、最低温度は10℃以上が好みのようです。霜が降りたらハイさようなら。雨が足りなくてもダメ。排気ガスも苦手のようで高速道路ができたらその沿線の松茸は生えなくなると言われています。環境汚染なんてもってのほか。松茸はとってもデリケートなのです。早すぎると言われても8月に出る時もあれば、遅いと言われても10月まで出ない時もあります。ああ、こんなに気難しい国産松茸。

 
 良いことだけをお客様に言いたいけれど、毎年、松茸が出てみなければどうなるのかは分からないので、お客様には本当に申し訳ないと思いながらも
「いつから出るか分かりません」、
「いつ出荷できるのか分かりません」、
「相場が日々変動するので内容量を確約できません」
とお答えするしかなく心苦しい限りです。
 
 それでも国産松茸販売センターを信頼して毎年リピーターになって下さるお客様には感謝の思いで一杯です。本当にありがたいです。
「今年もご注文をいただけた。このお名前見覚えがある」、
少しづつの歩みですが、毎年
「有り難いね、有り難いね」
とスタッフと話ができるのです。
 
 私が国産松茸にこだわる理由、国産松茸は美味しいということです。輸入物と香りが全く違います。
「さほど差がない」という人もいますが、私には香りの違いが分かります。小さい頃から食べ続けた松茸、恥ずかしい思い出の白飯と佃煮の松茸弁当。
 
「香り松茸、味しめじ」香り=鮮度なのです。
 
鮮度は水分量とも関わってきます。
松茸は80%以上が水分だと言われています。しかし、収穫してから水分は毎日約3%づつ減ります。昨今のように気温が高い日だと、30分で8%減ったこともあります。水分とともに香りも薄くなります。だから、私は産地直送の松茸にこだわりたいのです。あちこちを経由した松茸をではお客様の元に届く時には松茸の香りが減ってしまっているのです。
 
「鮮度の良い国産松茸をお届けしたい。」これが私の願いです。
 
そして、母が私に託した思いを守り続けたい。この思いで今年も頑張ります。